R.I.P. George “Shadow” Morton

アーティストの光の‘影’で音づくりをしているから“シャドウ”モートン。それゆえすぐ彼の名を覚えられました。ザ・シャングリラスのプロデュースで其の名を成し、主としてロックのフィールドで珠玉作を次々生んでいった人として知られています。

ヴァージニアのリッチモンド生まれながら、ニューヨーク・ブルックリンで育まれた彼。フィラデルフィアで棲息中の或る時、ニューヨークへヒッチハイクしようとしていて車がつかまらず、つれていってもらうため昔のニューヨークっ子仲間の1人を呼び出したのですが、正にその時、つもる話の中でハイスクールの頃の古い知り合いエリー・グリーニッチの噂を聴いたのがすべての始まりでした。ロネッツのビッグ・ヒット“Be My Baby”のソングライターとして大成功していると知り、コンタクトをとります。そして、「もしも今、近くにいるなら、私のオフィスで逢わない?」と誘われたので、「‘近いから’あすにでも伺う」と答えたんだそうです。次の日、彼はヒッチハイクでニューヨークへ。向かったオフィスは、ブロードウェイ。ヒット・ファクトリー、ザ・ブリル・ビルディングの1室でした。

彼のつくるものは、すべて常識破りといえるものだったかもしれません。オンナのコはかわいらしくしていなければならない、と思われていた1960年代半ば頃、タイトなジャンプスーツでバイクにまたがるようなまねをすれば、それはもうバッド・ガールそのものだったわけで。ポップ・ミュージック・シーンに、そんなカッコで現われたガールグループ、ザ・シャングリラスは、いくらかわいらしい聲で唱っていたとしても、正に‘常識破り’でした。実際親世代にはうとんじられることも。バイク音をフィーチャーしていたり、暗い詞のテーマも災いして、英BBCなどは彼のつくった(クレジットは、当時の大人の事情で、エリーとその公私共にパートナーだったジェフ・バリーらとの共作品となっています)1964年のベストセラー・ヒット“Leader Of The Pack”をオンエアー禁止曲としたりします。しかし、ヤング・ジェネレイションの間で、同作品はビッグ・ヒット。やはり彼のつくった“Remember (Walking In The Sand)”で、すでにブレイクアウトを果たしていた彼女達は、トップ・スターダムへのしあがったのです。

以後彼は、1967年当時タブーだった異人種間恋愛をとらえた、ミドルティーンのシンガー・ソングライター、ジャニス・イアンの“Society’s Child (Baby I’ve Been Thinking)”に携わったのを始め、ザ・スプリームズの“You Keep Me Hangin’ On”をワイルドながらうるわしいアート・ロックとなしえたヴァニラ・ファッジ、そしてサイケデリック・ロックのマスターピースの一つ“In-A-Gadda-Da-Vida”をつくったアイアン・バタフライらとのレコーディングに関わって、ロック・ヒストリーにその名を深く刻んでいます。プロトパンクなグラム・ロック・バンド、ニューヨーク・ドールズの1974年のアルバム“Too Much Too Soon”のプロデュースも。

いろいろなものが変わっていった時。そんな流れをしっかりとらえ、音楽作りへと映し出し得たソングライター/プロデューサーでした。心情的な昂まりをリアルに表すのがうまい音楽人だったとも思います。

George Francis “Shadow” Morton (1940.9.3 – 2013.2.14)

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