音楽史 彩る曲と いわれても
愛してなけりゃ
素で、のどじまん
数週間オクレで観ている”American Idol (season 11)”の話。
世の中、音楽系コンテストの類は星の数ほどあります。いわゆるのど自慢的なものから、オリジナル曲の良し悪し、アレンジメントを競うものまでいろいろ。そんな中、同番組は基本的に歌のコンテストとして位置付けられています。否、本来的意味からしたら、”アイドル”・シンガーを探すコンテスト・ショウ……ってか、とどのつまり作る人と観る人が皆でよってたかってスターを育ててしまうリアリティ・プログラムという感じでしょうか。
そしてそのキメテとなるのが、歌。いったいどれくらい歌えるのかという点を鑑みるべくいろいろなタイプの曲で試し、歌えなかったら消え、絞られた2トップでファイナル・バトル、票を多く集められたらV、と。
スターを探したいのなら、オリジナル曲を歌ったっていい筈(オーディションの時はいいみたいですが)。なのに、既存曲を歌わなかったらだめ。しかも、ポップのみならず、ソウル、ロック、カントリー、時にジャズと、すべからく。聴くのも初めてな生まれる前(生まれた頃)のスタンダード曲を突然歌えといわれたりもします。
たしかにね、私の様な古いファンからしたら、それはとてもほほえましかったりするもの。新世代のスターの卵が、昔のスターのレパートリー、いうなれば米国民の愛唱歌を歌う……という事は正に、音楽の継承を実感しますから。観ていていいなァと思う事の一つです。
しかし、いいなァと感じられるのは、それがつくられたものじゃないからで。愛してもいない曲を無理矢理歌っているのを観るのはかえって辛いもの。いくら実質上、競うスターの卵それぞれのパフォーマンス力が鍛えられるのを観るショウであるとしても。
男がスティーヴィー・ワンダー、女がホイットニー・ヒューストンを歌うトップ13の回は、実際目も当てられない程悲惨なのど自慢的番組に堕していました。なんとなく辛口審査員然としているアドヴァイザーのジミー・アイオヴィンも言っていましたが、スティーヴィーにしろ、ホイットニーにしろ、いずれもたやすく歌えるものじゃありません。うまくいって物真似がせいぜいです。あまつさえ、愛してすらいないそのレパートリーを歌ったらどうなるか!?
リスペクトとなる筈が、むしろその名を汚す様なパフォーマンスがぞろぞろ飛び出したのには、かるくめまいを覚えたしだいです。
いみじくも近年同番組においても増えつつあるインディーズ色をもつアーティストをどう魅せられるかが”American Idol”の行く末を占う鍵となるでしょう。
