HAWHOKKKEKYO 真説大衆音楽”洋”語辞典
festival
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というわけで、ルーツを辿っていくと、際限無くいけそうな”フェスティヴァル”。語源的にみるなら、それはまったくもって当然至極蟻地獄ですからね。でもそれじゃいつまでたっても終われそうにないので、スタイリッシュなミュージック・フェスティヴァルのモデルになったものにふれ、とりあえず第1次の締めといたします。
ニューポート・ジャズ・フェスティヴァル。
当時最もイカスものだったジャズを核に、当初米ロード・アイランド州ニューポートで、毎年夏に行われるようになったコンサート・イヴェントですね。社交界の女名士イレイン・ガスリー・ロリラード(と、タバコ業で知られる夫ルイス)が始め、オーガナイザーとしてジャズ興行主のジョージ・ウェインにその企画運営面が委ねられています。
第1回は、1954年。ベルヴュー・アヴェニュー・ヒストリック・ディストリクトのニューポート・カジノで行われました。ライヴ・パフォーマンスのみならず、ジャズを語るパネル・ディスカッションも含むものだったとか。アカデミックだったんですね。ライヴはアウトドアにセット。ラインアップの1人にビリー・ホリデイの姿がありました。2日で11,000人を集め、初めての試みにも関わらず、大成功を収めたそうです。翌’55年以降はその場をカジノのそばにあるフリーボディ・パークへ。以後、会場の変遷(フェスティヴァル・フィールド)はあったものの、ニューポート年1回の風物詩として親しまれるようになります。とくに’58年の第5回は、ルイ・アームストロング、セロニアス・モンク、ジョージ・シアリング、ダイナ・ワシントン、アニタ・オデイらジャズ界のスターを始め、正に”米音楽の心”ともいえるマヘリア・ジャクソンのゴスペル、そしてチャック・ベリーによる最先端のロックンロール・パフォーマンスをフィーチャー、”Jazz On A Summer’s Day”としてドキュメンタリー映画化されたため、一躍世界的にその名を轟かせました。’72年からはその場をニューヨークへ。’81年、ニューポート(フォート・アダムズ・ステイト・パーク)へ再び舞い戻り、ニューヨークでのそれは”Kool Jazz Festival”に。やがてそのヴァリエイションとして、我が国斑尾高原で’82~’03年にわたって行われた”Newport Jazz Festival in Madarao”(’95~’97年中止)などが生まれています。
ジャズというカテゴリーにとらわれず、音楽的なものから、ファッション、社会思想等に至る、発信源の一つだったといえるでしょう。殿堂的心象すらもたらしました。”…… at Newport”と名づけられた作品数の多さがそれを示しています。そしてそのエッセンスは、後のフェスティヴァルに深く影響与え、広く受け継がれているのです。
