Record Makers’ Rhapsody
vol.5 ATLANTIC
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「’60年代の後半、白人のロックが音楽シーンのメインストリームになることはわかりきっていた。アトランティックのR&Bの売れようをみていれば、当然現れるべきものだったからね」と、アーメット・アーティガンは後にふりかえっています。「”何か”が変わろうとしている」といったのは、時のコロンビア・レーベルのトップ、クライヴ・デイヴィス。そういった兆は、目はしの利く業界人ならば誰でもそれなりに感じとっていました。’60年代半ばあたりから、音楽界は新世代のロック・レヴォリューションにほんろうされます。そんな中、コロンビアともどもその波にうまくのって大躍進をなしとげたのが、当時既にモータウンと並ぶソウル界のトップ・インディーズにのしあがっていたアトランティックでした。レコード・メイカーの命は、トップの耳にかかっています。アトランティックのアーメットは、正にその耳をもつ人でした。
来るべきロック・エイジを感じとっていた彼はまず’66年、ニール・ヤングを始め、スティーヴン・スティルスら後のVIPスターを多くかかえるバッファロー・スプリングフィールドとサイン。兄ネスヒの指揮下ジョン・コルトレーン等のジャズ系中心に営まれていたファミリー・レーベル”アトコ”預かりとしました。ところがその可能性を信じていたにもかかわらず(それは当たっていたのですが)、これからという時に内部の不和で解散してしまいます。彼が、いかに悔しかったかは、もはや為す術なしとなったミーティングで泣いたというエピソードからも窺いしれるでしょう。もちろんその後ほどなくして生まれたスーパー・グループ、クロスビー、スティルス、ナッシュ(&ヤング)とはためらいなくサイン。やがてアーメットの”耳”が確かだったと証されたのはいうまでもありません。<つづく>
