Record Makers’ Rhapsody
vol.5 ATLANTIC
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「思い通りにやればいいのよ!」。タイトで泥くさい音にのっかって叫ぶアリサ・フランクリンのソウルフルな声は、’60年代の黒人……そして女性の自由の獲得への勇気を奮い立たせました。しかしその声も、コロンビア在籍時にはそれほどの力はありませんでした。パワーを得たのは、ジェリー・ウェクスラーの下でレコーディングするようになってから。つまり、アトランティックへ移ってからでした。黒人解放史に残るワシントン大行進、そして”Black Is Beautiful”ムーヴメント。黒人が本当の自由をかちとるため、第一歩を踏み出した’60年代、音楽界も変わりつつあったのです。ロックンロールのブームに伴い、やがてその基となるR&Bも一般的白人に受けいれられる”ソウル”に衣がえし、広く世に浸透化します。そんなソウルの扉をひらいたのは、レイ・チャールズ。さらにジェイムズ・ブラウンを始め、アリサら新たなるスターたちでした。そしてその推進役を務め、モータウンとシノギをけずりながら、スタックスと共にソウルの1大名門にのしあがったレーベル。それが、アトランティックでした。
アトランティックが創られたのは、1947年の秋10月。創始者の1人は、アーメット・アーティガンという、駐米トルコ大使の息子で、当時24歳の青年でした。10歳のころからジャズ・ファンだった彼は、既にレーベル・オーナーの経験持つハーブ・エイブラムスンと共に、黒人音楽中心のレコード・メイカーとして始めます。レコーディング・エンジニアに物理学の博士号を持つトム・ダウドを迎え、彼自身はニューヨークの黒人街ハーレムでアーティスト探しにあけくれました。奇しくも、14歳の時1人でクラブを歩き回り、叱られた街がシゴトの場になったわけですね。
’49年、スティック・マギーの歌う「ドリンキン・ワイン・スポ・ディー・オー・ディー」がR&Bチャート2位を奪うヒットに。以後、同社の路線はR&B中心になります。ロックンロールの父親的存在ジョー・ターナー、レイバー&ストーラーという伝説的な作曲兼制作チームに支えられてたてつづけにヒットを飛ばしたコースターズ、そしてベン・E・キングなどをかかえたドリフターズらスター・アクトも次々生まれました。特にレイ・チャールズをつかんだ事は、アトランティックを黒人音楽界のトップ・シートへつかせます。<つづく>
