MOTOWN

Record Makers’ Rhapsody

vol.4 Motown

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“THE SOUND OF YOUNG AMERICA”……モータウンのキャンペーンに一時使われていたこのスローガンこそがすべてでした。音の感じから、ファン層、共にその言葉通り。正に、言い得て妙ですね。

これまでに15曲以上Billboardトップ10ヒットをつくったアーティストは30組もいません。しかし、なんとそのうち約2割ほどがモータウン勢に占められています。さすが、黒人自ら営むインディーズの中一番成功を果たしたレーベル・グループ。なんせこのモータウン勢全部で700近い曲がヒットチャートヘ。そんなインディーズ、ほかに例がありません。

話はその創設者べリー・ゴーディー・Jr.に端を発します。地主の白人と奴隷の私生児ながら珍しくも読み書き算数等を習わせてもらった祖父をルーツに持ち、デトロイトで建設業と印刷業を営む父に育てられたこの男が、ジャズヘのめりこんだのは20代前半のこと。かつてプロ・ボクサーだった彼は、陸軍除隊後、父の下で働くようになりますが、忙しさとやりがいのなさを癒そうと、クラブに入りびたってジャズに酔いしれていました。そしてそのころ見たビリー・ホリデイに心を捉えられます。

やがて、陸軍退役金と父からの借金等で$700を集め、3-Dレコード・マートというレコード・ショップを開きます。しかし、あくが強くブルージーな曲を好む黒人労働者に対し、ヒップなジャズ系中心の品ぞろえをしたのが災し、たった2年で店を閉めるはめに。とはいえそれ以後、音楽へ傾倒。リンカーン=マーキュリーのベルト・コンヴェアーの前で働くかたわら曲を書き続け、出来上がっては姉のグウェンとアンナが働くフレイム・ショウ・バーで関係者に売りこんでいました。

そして1957年、タレント・マネージャーのアル・グリーンを通じ、奇しくも昔アマチュア・ボクサーだったころの知り合いジャッキー・ウィルソンの曲を書くことになります。グウェンの友だちだったビリー・デイヴィスとつくったその曲「リート・ペティート」は、彼のソロ・デビュー後、初のヒットに。以後約3年の間で、みるみるうちに作曲者べリーの名は音楽界に轟くところとなります。ジャッキーの事務所でオーディションに来た後の良きパートナー、スモーキー・ロビンソンと”運命的出合い”を果たすのはその年の夏のことでした。柔らかなファルセット・タッチのハスキー・ヴォイスを持ち、個性的な曲を作るその17歳の男の子に惹かれた彼は、作曲術などのアドヴァイスをするようになります。

時が経ち、’59年、ついにべリーは、雪の中、車を走らせながら、自社の設立を決意。いくらヒット曲をつくっても、ロイヤリティをごまかされ、辛い暮らしを強いられていた、べリーを見かねたスモーキーの奨めからでした。彼は、再び親に$800を借り、デトロイトのウェスト・グランド・ブールヴァード2648番の木造家を買います。そして”Hitsville USA”と名づけたその事務所に居を構え、まずは原盤制作会社TAMLA(米映画『タミー』からとった)、ついで著作権管理の音楽出版社JOBETE(3人の娘の名からとった)、さらにアーティストのプロダクションITM等々を次々に設立していったのです。<つづく>

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