COLUMBIA

Record Makers’ Rhapsody

vol.1 COLUMBIA

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「アンタがディランを見つけた人? ホントに聴く耳あるの? ディランよりもスゴイ奴つれてきたんだけど」。1972年5月2日午前11時、ニューヨークのコロンビアのオフィスで、プロデューサーのジョン・ハモンドは、初対面のマイク・アペルというマネージャーに、そうまくしたてられます。60歳を超す音楽界のVIPは、アペルの横柄なロ調に閉口したものの、とりあえず歌を聴いてみることにしました。ところがその男がギター1本で歌い出したとたん、ジョンの目と耳は釘づけになったのです。15分間の面会の約束が、結局2時間のオーディションに。さらにその夜、マンハッタンのクラブで歌わせて、非凡な才能を確信。正にデイランの時と同じ胸の高まりを覚えたと、後にふりかえっています。40歳の年齢差を超え、お互い気も合い、翌日彼は、ただちにその男のデモテープをレコーディング。2時間余で「グローイング・アップ」等、全14テイクも取ってしまいます。出来上がったテープの箱にはしっかりと“’70年代、最高の新人”というジョンの走り書きがあったとか。マネージャーとはそりが合わなかったため、プロデュースはしませんでしたが、すぐにサインに至ります。それがブルース・スプリングスティーンでした。’73年発表のデビュー作は売れませんでしたが、’75年の第3作『ボーン・トゥ・ラン』でブレイクアウト。’84年『ボーン・イン・ザ・USA』のころには米ロック界随一のスーパースターへのしあがります。

’70年代半ば過ぎからコロンビアは、いかにセールス1位の座を守るかが、経営の最大の目標になっていました。一時期独走態勢だったものの、大同団結策でパワーを結集後のWEAの急成長ぶりは凄まじく、もはや肩を並べつつあったのです。ロックを主にした2大レコード・メイカーがのしあがってきたのは、正に時代的な流れにそったもの。しかし、コロンビアはその指揮官クライヴ・デイヴィスを自ら失い、勢いそのものはWEAに傾いていました。そんな時、新社長を命じられたのが、かつてクライヴがコロンビアに迎え入れたやはり元”弁護士”のウォルター・イェトニコフ。シャイで、ぱっとしないが、頭が切れるといわれての大抜擢でした。やがて彼は、切れものらしく大変身。戦闘的経営で、常に荒っぽく振る舞うようになります。テーマは、“ワーナー・ブラザーズをぶっつぶせ!”。それに伴い、CBSのコンヴェンションでホントにGIブーツ(戦闘靴)を配ったというくらいですから……。そして彼は、アーティストの争奪戦に熱狂的に取り組む事に。まずは”敵”のトップ・スターの1人だったジェームス・テイラーを高い契約金で奪います。これは、彼のスーパースター初契約でもありました。しかし喜びもつかの間、WEAはポール・サイモンを奪い、みごとにお返しをします。ポールは、音の良し悪しがわかるクライヴは好きでしたし、世に出してもらった恩も感じていましたが、契約の交渉に同席しようとしたら出入り禁止にしたウォルターにはちょっとした憎しみを抱いていました。

以後、両社は熾烈な争奪を繰返します。WEAは新人発掘面も共に重要視していたため、スーパースター最重視で札びらを切りまくったCBSは獲得率で優りはしました。しかし、ポール・マッカートニー、ローリング・ストーンズ、ビーチ・ボーイズらとのサインのほとんどは、いたずらに契約金相場を上げ、益は少なくなってしまいます。何故彼は、そんなスターを得ることのみに力を入れたか? むろん取られたくないという社長の意地もありましたが、結局わからなかったんだそうです……新しいものが。彼は、つまり“オンチ”でした。それでもなおデカイ顔をしていられたのは、アース・ウインド&ファイア一、エアロスミス、ビリー・ジョエルら、火のつくのがちょっと遅かったスーパースターが次々当たっていったから。ブルース・スプリングスティーンを始め、ほとんどがクライヴの下で集められたもの。いわば置きみやげに救われたわけです。しかし、それもいつまでも続くわけじゃありません。結局新人発掘の少なさが“弱み”となります。そして’88年1月5日、コロンビアはソニーの系列下に。’90年9月4日、ウォルターも辞め、新時代を迎えます。マライア・キャリーのデビュー曲がNo.1に輝いたのはちょうどその1か月前でした。<了>

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