COLUMBIA

Record Makers’ Rhapsody

vol.1 COLUMBIA

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“何かが変わろうとしている”……1967年の6月、モンタレー・ポップ・フェスティバルを見たクライヴ・デイヴィスは、そんな兆を感じ取ったそうです。そしてその勘が彼の司るコロムビアを業界一のメジャー・レーベルへ押し上げることになります。’60年の11月、法律事務所につとめる彼は、元同僚に誘われてコロンビアの顧問弁護士となりました。かつて作曲家がいなければ始まらなかった音楽界も、アーティストありきへと移り、レコード・メイカーも、いかに逸材を発掘し、有利に契約できるかが、最大の仕事になりつつありました。即ち、弁護士が鍵を握ることになります。顧問弁護士としていくつかの訴訟を有利に処理していった彼の仕事振りはそのなかで際だっていました。そしてそれはトップのG・リーバーソンの目に止まることになります。’65年、彼は突然経営部門の取締役に任じられ、翌年夏、代表取締役の座へ。リーバ-ソンにしてみれば、総合管理職として第一線から退いても、制作面は自ら目を配りたかったのでしょう。で、適任者を探したら、消去法で若い彼が浮かんだにすぎませんでした。しかし、結果的にはそれが功を奏します。

就任後、“イギリスのディラン”といわれたドノヴァンと初契約。以後彼は、次々新感覚のロック・アーティストを抱えるようになります。そのきっかけとなったのが、モンタレー。ヒッピー・ムーヴメントなんぞ関わりのなかった彼にとっては、見るもの、聴くもの、すべて衝撃的だったでしょう。“愛”のあふれる会場内で、花とビーズを渡された時、サイケデリックなロックのパワーを信じてしまったのもよくわかります。彼はその場で、「催眠術のようにそのパフォーマンスに魅せられてしまった」ジャニス・ジョブリンを取りにかかりました。契約金7万5千ドルの破格値(当時、新人は通常3万ドル前後でした)で。しかし、ジャニスがヴォーカルをつとめるグループは既に別会社と契約済み。交渉は一時、暗礁にのりあげます。そのうちにMCA等と争奪戦に。結局契約金は25万ドルと跳ね上がりましたが、モンタレーからおよそ1年でサインにこぎつけます。

開けっぱなしの会議室でメンバーの1人が素っ裸にはなるし、契約書のサイン代わりにセックスしようといわれるなど、初顔合わせはショッキングなものだったそうですが、ジャニスとの付き合いはうまくいきました。シングルがヒットしやすいよう彼自ら編集したものを無下にされなかったのもそれゆえ(彼はヒット1曲につき50万ないし百万枚、アルバムが売れるというマーケティング論を持っています)。反体制でアルバム重要視志向が強いロッカーに、体制的な会社側の効率的な短時間編集シングル盤のリリースを許させるのですから、大したものです。そういえば、後に、ジャニスが寂しがりやなのを察し、彼の家でパーティーを開いてあげたりもしています。そんなふれあいが良かったのでしょう。彼一流のアーティスト掌握術でした。ともあれそのシングルのヒットのおかげでファースト・アルバムもミリオンセラーに。さらに、サイモン&ガーファンクルを始め、ブラッド・スウェット&ティアーズ、シカゴ、サンタナら若いロック勢中心に売り出し、彼自身も快進撃。むろん、バーブラ・ストライザンド等も引き継ぎはしましたが、エネルギーはロックに注がれました。そのいずれもが、ミュージカル等がメインだったかつてのレーベル・カラーにはそぐわないもの。しかし、彼は、アンチ・ロックをとなえるミッチ・ミラーら社内の巨匠プロデューサーの意見を無視。ジェイムズ・グェルシオら、社外の鋭敏な独立プロデューサーを使い、ロック重視の路線を突走ります。それが時代の動向と合致。’65年は11%だった市場売り上げ占有率が、’68年は17%にアップ、’70年にはとうとう22%という圧倒的数字でトップの座を占めるようになります。彼のさい配は大成功でした。

しかし、出る杭は打たれるもの。上昇志向満々だった彼は、CBSの上層部からは疎まれることになります。実際親会社CBSも乗っ取ろうかというくらい、彼の勢いには凄じいものがありましたが……。時にミュージシャンよりもめだつ出たがり的性格も災いしたかもしれません。そして’73年5月29日、横領等で訴えられ、突如首を切られたのです。かくて、音楽の流行を直感しうる耳、A級のマーケティング論、アーティスト掌握術を持ち、ロックの新時代においても、コロンビアを1大メジャー・レーベルにしたてあげた名監督は、一時音楽界の表舞台を去ります。再び彼がシーンに現われた時は、コロンビアにとってはてごわい敵になっていました。<つづく>

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