Record Makers’ Rhapsody
vol.1 COLUMBIA
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コロンビアがなければすべては始まりませんでした。
1889年初頭創設。コロンビア・フォノグラフ社が初の本格的なレコード・メイカーとして第一歩を踏みだします。そしてその後、1938~’88年の半世紀の間、CBS系列下で音楽界をリード。レコード・ビジネス自体が同社とRCAの競合を背景に発展したといってもあながち間違いとはいえないでしょう。
私は、コロンビアのその発展史を、ゴダード・リーバーソン、クライヴ・デイヴィス、ウォルター・イェトニコフ、そしてジョン・ハモンドという4人のミュージックマンを通してみてみようと思います。今回は、同社が業界トップの座を奪い、我が世の春をきわめる’50~’60年代半ば、つまりリーバーソンが指揮官をつとめた頃からふりかえってみましょう。正に英国紳士風で一流社交界受けした彼は、コロンビアを、ホロヴィッツ等クラシックの作品群で格づけしつつ、『マイ・フェア・レディ』等一連のブロードウェイ・ミュージカル、ミッチ・ミラーのプロデュースものを始め、アンディー・ウィリアムズ等、品の良いポピュラー作品群の大成功で、業界一の高収益会社にしたてあげます。当時大流行のロックンロールもじゃけんにするわ、ジャズもマイルス・デイヴィス等王道を行く信頼銘柄重視で、冒険的なものにはほとんど目もくれませんでした。しかし、そのなかにも革新的な音楽制作人がいたのです。それがハモンドでした。
’30年代初め、ジャーナリストのかたわら、プロデュースも行うようになった彼は、すぐにその非凡な能力を発揮。とくにべニー・グッドマンに、フレッチャー・ヘンダーソン、テディ・ウィルソン、チャーリー・クリスチャンらユニークですぐれた黒人ミュージシャンを絡ませたのは画期的でした。食堂でさえ同席できなかった時代に、白人と黒人のコラボレイションを企てたのですから。グッドマンの音楽的魅力は増し、やがてスウィングの大流行へとつながります。
さらにジャズ・ジャイアントの1人カウント・ベイシーを広く世に知らしめ、17歳のビリー・ホリデイを見い出すなど、彼がジャズ界にもたらしたものは計りしれません。以後一時的にコロンビアを離れましたが、’50年代末、リーバーソンに声をかけられ、再入社。矢継早にアレサ・フランクリン、ジョージ・ベンソン、ピート・シーガーらVIPなアーティストに関わっていきます。そして、ついにその“時”が……。’61年初秋、グリニッヂ・ヴィレッジで行われたキャロリン・ヘスターのレコーディング・リハーサルにふらっと立ち寄り、小柄な青年と出会います。帽子をかぶったその青年を一見し、直感。彼は、歌も聴かずに( ! )、青年と5年間の契約を結んでしまいます。それがボブ・ディランでした。
いくらアーティストが良くても、それを知り、世に出してくれる人がいなくてはどうしようもありません。彼は、正しくそんなアーティストを見つける力を持っていました。それも、ディランもそうですが、ラジオで偶然聴いたというベイシーを始め、クラブでたまたまその一晩、代役で出演していたのに出会うホリデイら、そのほとんどが運命的なものなんですよね。リーバーソンも、そんな神がかり的なタレント・スカウトぶりを買っていたのでしょう。むろん彼が大富豪の末えいというのもお気に入りだったでしょうが。それでなければ、レッド・パージのブラックリストにまでのったシーガーはもとより、ギンズバーグら反体制人間と付き合い、黒人生活向上協会の理事職もつとめていた彼をもちいるわけがありません。
彼の見い出すアーティストは、初めはいつもまわりからくそみそに叩かれれました。しかしそのなかから音楽史にその名を残すアーティストが多く生まれています。結局彼の目が音楽史をつくったともいえるのです。そしてその目は、歳をとっても衰えませんでした。60代で見い出すアーティストの1人、ブルース・スプリングスティーンが、正にその証しです。<つづく>
